弱音
「なかなか賛同者が増えないんですよ」
こんな弱音を吐いていたら、ある方からこんなメッセージを頂きました。
成瀬さん自身がなぜこのような活動をしておられるのか?
そこに成瀬さんのどのような人生、背景があるのかというストーリーが見えると、協力してくれる人が増えると思いますよ。
ごあいさつで、私(発起人:成瀬俊昭)がうつ病で苦しんだ経験があることをお伝えしましたが、もう少し私自身のことについて詳しく書いてみようと思います。
あやうい感情
20代の頃は、はっきり言って天狗になっていました。
メーカーでヒット商品を手がけたこともありますし、誰もが知るECサイトの立ち上げに参画した時の私のエピソードは、『AERA(アエラ)臨時増刊』にカラーで4ページにも渡って掲載されました。
紆余曲折あり、挫折も経験しましたが、結果的に自分でも満足のいくキャリアを積み上げていたつもりでした。
現在の会社に入社したのは、30歳になった頃でした。
当時私は、こんな風に考えていました。
「自分は仕事がデキる。職場の奴らに見せつけてやる!」
「見せつけてやる」という発想。完全にどうかしています。今、周囲にこのような空気の人間がいたら、私自身きっと近寄らないでしょう。
自分で書くのも憚られるのですが、当時の私は異常なほど、自信過剰でした。
「自分は特別な人間なんだ!」
「本気でやらない奴は許せない!」
こんな、あやうい感情が芽生えていたのだと思います。
弱さを克服した少年時代
この過激な思想のベースができあがった背景は、幼少時代にあります。
私は、重度の喘息持ちでした。
物心がついた頃から、運動もままならず、テレビを見て笑うだけで発作を起こしてしまうくらい、体が弱い子供だったのです。
発作が起こるたびに、寝ずに朝まで背中をさすり続けてくれた母親。
母親には申し訳ないのですが、あまりにも苦し過ぎて「楽になりたいから死にたい」と訴えていたのを今でも覚えています。
風邪をこじらせては、肺炎を起こして入・退院を繰り返しました。
久々に幼稚園に行っても、仲の良い友達はできません。行くたびにいじめられて、楽しい思い出は何ひとつありませんでした。
「自分はなんでこんなにダメな人間なんだろう」
子供ながらに自分の境遇を呪いました。
転機となったのは、小学校1年生のときに通い始めたスイミングスクールでした。
笑うだけで発作を起こすのに、何を思ったのか、両親は私に水泳をやらせました。
「喘息に効くらしい」
このときから地獄の日々が始まりました。
死にそうになるほどの苦しさ。もともと運動神経や物覚えが悪かったので、なかなか息継ぎができるようになりません。
次第に息継ぎができるようになりましたが、苦しさは変わりません。
なぜなら、運動しているときと同じような発作が起きてしまうので、結局は息苦しさが止まないのです。
息継ぎの時、ふいにプールの水が大量に鼻や口に突入することもあります。その時は発作云々ではなく、物理的に呼吸ができません。
常に窒息寸前になりながらのレッスンは、まるで拷問のようでした。
両親に「辞めたい」と泣きながら訴えても、辞めさせてもらえませんでした。
不思議なことに、嫌々ながらも続けていると、少しずつ変化があらわれてきました。
泳げる種目が増えてくると、泳いでも苦しくなくなったのです。そして、陸上で水泳以外の運動をしても、めったに発作が起きない体になったのです。
次第に泳ぐことが好きになり、気づくと選手コースにまで進んでいました。小学4年生のときでした。
その後、水泳(中学・高校ともに水泳部に入部)も勉強も、そこそこ上の方のレベルで活躍できるようになると、ようやく自分に自信が持てるようになりました。
「死ぬ気で努力すれば何でもできるようになるんだ!」
危険な思想のベースは、この頃に生まれたのだと思います。「死ぬ気でやる」、「努力し続ければ必ずできる」という、根拠のない体育会系の発想。
文字通り、自分自身が「死ぬ気」でやって克服してしまったからこそ、心に強く刻み込まれてしまった、素直な感情でした。
大人になるにつれて、謙虚さも奪われていったのでしょう。周囲の人間に努力を強いてしまったことも少なからずあります(おそらく口には出さずとも「死ぬ気でやれ」と言わんばかりに)。
こうして、異常なほど【完璧主義】な自信家の人間が生まれてしまいました。
あの当時、相手を精神的に追い詰めてしまっていたかも知れないと思うと、胸が痛くなります。
告白
話を戻します。30歳になった頃、私は現在の会社に入社します。
自信満々で意気込んでいた私は、即戦力になれない現実に愕然としました。
「この会社では通用しないのではないか」
正直焦りました。
連日の深夜残業に休日出勤。働いても働いても、会社に貢献している実感がわきません。
家では、ほぼ食べて寝るだけの生活。へとへとで何もする気が起きず、会社に行くだけで精一杯。
ちょうどこの頃に息子が生まれたこともあり、育児に関われない(妻のフォローを何ひとつしてやれない)罪悪感も芽生えていきました。
会社と家の両方で、プレッシャーと貢献できない自責心が蓄積していき、しだいに精神的に追い詰められていきました。
会社に行くのが辛くて、妻の前で思いっきり泣いてしまったことがあります。
それは、初めて心療内科を受診してから、1カ月ほどたった日のことでした。
当時、息子は1歳。妻も専業主婦でしたから、私は通院しながらも、なるべく心配をかけまいと無理して強がっていました。
どうにも気持ちを抑えきれなくなった私は、ついに心の叫びを妻に打ち明けてしまったのです。
「もう働けない、どうしていいか分からない……」
私は泣き崩れてしまいました。
もう我慢の限界でした。
まるでダムが決壊したかのように、涙がとめどなく溢れて、わんわん泣いてしまいました。
でも妻は幼い赤ん坊を安心させるかのように、私を抱きしめてくれたのでした。
これが私にとって初めて、自分の<弱さ>を受け入れて、曝け出した瞬間 でもありました。
見失った「生きることの意味」
その後の約1年間は、休職しては復帰する、の繰り返し。まともに働くことができませんでした。この頃、自分のことを
「会社にとって全く必要のない人間」
「家事や育児に関われず、家でも役立たずな人間」
と考えるようになり、すっかり自信をなくしていました。しまいには
「自分は存在する(生きている)価値のない人間」
と考えるようになりました。何度か生きることをあきらめようとも思いました。
「生きることの意味」を見出すことができなかったからです。
* * *
早起きのリズムを作る訓練という口実で、開店前からパチンコ店に並び、一日中過ごす。
帰宅しては、(抗うつ薬を飲んでいるのに)「ほどほどのアルコールは大丈夫」と正当化し、気分に任せてお酒を飲んで酔いつぶれる。
体調不良を理由に好きなだけ寝る、好きなときに起きる。
* * *
もはや、生まれたばかりの息子を持つ父親、育児に追われる妻を持つ夫、の姿ではありません。
繰り返す休職による収入減、不規則な生活リズム、(妻の)育児ストレス……
これらは、私の闘病(本人はまだこの時真剣に病に向き合っていなかった)を支えてくれていた妻の心をも、少しずつ蝕んでいきました。
妻が心身に不調をきたしていることを知ったのは、しばらく後のことでした。
思い出した初心
妻の異変に気付いた私は、強烈な自責の念に襲われました。
「とんでもない過ちを犯してしまった……」
妻に甘え続けたサイテーな夫であり、全く頼りにならない身勝手な父親(資格なし)。
病気を理由に働かず、自堕落な生活をしていた私をよそに、自分の身を削ってまで、私以上に病気に対して真剣に向き合ってくれた妻。
突如として浮かんだシーンが2つありました。
妻の両親に初めて挨拶に行った時に「必ず幸せにします」と誓った時のこと。
産婦人科で息子が生まれる瞬間に立ち会い「この子を一生守っていく」と胸に刻んだこと。
これらがフラッシュバックのように脳裏に蘇ってきました。
「自分はいったい何をやっているんだ!」
この思いが強く込み上げてきた瞬間、目頭が熱くなったのを今でも覚えています。
うつ病の完治は難しいと言われています。私自身、現在もそれを身をもって感じています。
最後の休職明け以降、心療内科への通院を続けるも、休職には至らずに済んでいました。
しかしながら、昨年久々のどん底状態に耐えしのげず、とうとう10年以上ぶりに心療内科に足を運ぶことになりました。
決意のきっかけとなった本
長年あたためてきた「メンタル本大賞」のコンテスト企画を実行しようと決意した、きっかけとなった本があります。
ノミネート作品としてもご紹介している『あやうく一生懸命生きるところだった』(ハ・ワン 著、岡崎暢子 訳/ダイヤモンド社)です。
翻訳の岡崎さまもインタビューで触れている通り、読者の人生を(良い意味で)変えてしまう本かも知れません。
韓国人の男性イラストレーターによるエッセイ本ですが、私にも強烈過ぎるほどのインパクトがありました(ほんわかした著者の人柄が伝わる【心が楽になる】本ですので誤解なさらないでくださいね)。
家族のこと、仕事(職場)のことに悩み続けていた昨年。
「このまま会社のために働くのは嫌だ」
「お金の奴隷になるのは嫌だ」
そう考えていた矢先、ごく自然に「メンタル本大賞」にチャレンジすることの決意が固まっていきました。
長年あたためてきたアイデアだったので
「やらずにはいられなかった」
「いてもたってもいられなかった」
そんな心境でした。
息子も高校3年生。今後の進路はまだ未確定ですが、父親として云々の前に、まずは「自分の人生を生きよう」と思います。
救ってくれた「メンタル本」
「生きづらさ」を感じている人は、インターネットの情報に頼りがちです。
私も休職中は、当時それほど多くなかった、うつ病経験者の闘病ブログを探しては、むさぼるように読みました。
しかし、本を読むという意識にまで、なかなかいけないのです。
内容以前に、本を読むこと自体に疲れてしまうからです。
「本を書くような著者は自分とは住む世界が違う人」
という気持ちもありました。
プレゼンテーション資料より抜粋
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少しずつ回復して、外出できるようになると、読書をしようという気も起きてきます。
大量に並べられた本の中から、やっとの思いで見つけだして買った本。その内容にガッカリすると、本を探す気持ちが失せてしまうこともありました。
それでも、また読もうとして、書店に再び足を運びます。
しかし、売らんかなと煽るようにして並べられた平積みに血の気が引くこともありました。
私の場合、もともと1,000冊以上のビジネス書を読んでいたので、読書に対する抵抗感は低い方でした。
何度も何度も書店に足を運んでは、特定のテーマの本を(ある意味、棚ごと全冊なんて時も)買って読む。
「これはいい!」
「あぁ、ガッカリ……」
なんてことを繰り返しながら、メンタル本を読みあさりました。
しかし、これはあまりオススメできる方法ではありません。
あまり本を読まない人にとって、このような(本を探すこと、読むことの)労力や負担ははかり知れないからです。
プレゼンテーション資料より抜粋
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「メンタル本」は治療の手段では決してありませんが、医療機関・カウンセリング受診における知識を得る際の有効な情報源にはなり得ます。
本を手に取りにくい方(読者予備軍の方)に、私が感じたような負担がなく、労力を割かずに【心が楽になる】「メンタル本」に出会って欲しい・・・
このような思いを込めて、「メンタル本大賞」のコンテスト企画を立案し、実行に移しました。
もしよかったら、一緒に「命をつなぐ」お手伝いをしていただけませんか?
2021年2月9日
「メンタル本大賞」実行委員会
発起人 成瀬俊昭
「メンタル本大賞」の選考委員を募集しております。
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